休憩所やネットで誰かを叩く輪が広がる場面を取り上げ、その結果を最後に引き受けるのは本人であって部外者ではないという「課題の分離」の考え方で読み解いた。突き放すのではなく、土足で踏み込まずに手を貸すと申し出る姿勢として、「俺は詳しく知らんから何とも言えん」「気になるなら一緒に聞きに行きましょうか」といったその場で言えるひと言を示した。
たとえば十時の休憩。ぽろっと誰かが口にします。「隣の現場の職長、また段取りミスったらしいぞ」。あるいは、ネットで炎上している人の話。「あんなの嘘に決まってる」「自業自得だろ」。
誰も悪気はありません。暇つぶしです。ただ、この手の話はよく燃えます。一人が薪をくべると、次の人がもっと大きい薪を持ってくる。終わる頃には、その場にいない誰かが、こてんぱんにされている。
そして最近は、それが休憩所だけで終わりません。スマホの向こうでは、叩かれている人の家族の顔まで探し出して並べる人がいる。本人に落ち度があったとしても、奥さんや子どもは何もしていないのに、です。
私はこういう場で、だんだん口数が減るタイプです。正義感が強いからではありません。ただ、自分がその話で得るものが何もないな、と思うようになっただけです。
アドラー心理学をベースにコーチングをしている立場から言うと、ここには「課題の分離」という考え方が効きます。
難しい言葉ですが、現場の言葉に直すと単純です。**その結果を、最後に引き受けるのは誰か。**
隣の現場の職長が段取りをミスった。その尻ぬぐいをするのは本人と、その現場の責任者です。ネットで叩かれている人の生き方も、始末をつけるのは本人と、身近にいる人だけ。私が休憩所でどれだけ論破しても、現場のバラシは一本も早く終わりません。
誤解されやすいのですが、課題の分離は「冷たく突き放して知らんぷりしろ」という話ではありません。**土足で踏み込まないこと**と、**手を貸せることがあるなら申し出ること**。この二つはセットです。
では、なぜ人は他人の課題に入り込んでしまうのか。ひとつには、他人を裁いている間だけは、自分の足元を見なくて済むからだと思います。自分の段取りが不安なとき、自分の班がうまく回っていないとき、よその失敗話はよく効く鎮痛剤になる。ただ、痛み止めなので、痛みの元は治りません。
もうひとつ。叩く輪に入っていると、その場の仲間だという感じがする。でも、その一体感は「誰かを外に置くこと」で成り立っているので、次に外に置かれるのが自分でないという保証はどこにもありません。それを、若い衆はちゃんと見ています。
難しいことはしません。話を止めなくていいし、説教もしなくていい。自分の立ち位置だけ、はっきりさせておけば十分です。
**「俺、詳しく知らんから何とも言えんわ」**
これだけで、薪が一本減ります。否定していないので角も立ちません。
**「それ、本人には伝えました?」**
うちの会社や取引先の話なら、これが一番効きます。伝える気がない不満なら、それはただの娯楽だと、お互いに気づけます。
**「気になるなら、一緒に聞きに行きましょうか」**
本気で心配しているなら、これが援助の申し出です。裁くのではなく、隣に立つ。ここが、放置とはまったく違うところです。
そして、自分の班の誰かのことが気になるなら、こう言えます。**「何か詰まってるとこある?手が空いたから見るよ」**。相手を評価せずに、手だけ差し出す言い方です。
誰かの失敗を肴にしない休憩所は、最初は少し静かで、物足りないかもしれません。でも、その場にいない人の悪口が出ない場所は、いない間に自分も叩かれない場所です。そこにいる人間は、たぶん少しずつ、本音を出せるようになります。
もし今、自分がその「叩かれる側」に置かれて苦しいという方がいたら、一人で抱え込まず、信頼できる人や専門の相談窓口に話してみてください。抱えたまま夜を越えるのは、しんどすぎます。
明日の休憩、話の輪の中で一度だけ、口を閉じてみる。それくらいから始めてみませんか。
労基提出図一式、強度計算書、道路占用・使用図面まで対応しています。
LINEなら、読んでいて浮かんだ疑問でも気軽にどうぞ。